パリパラリンピックへの出場が内定された、車椅子陸上のアスリート伊藤智也さん。
数々の世界大会で金メダルを獲得していて、『車いすの鉄人』とも呼ばれています。
幼少期は野球少年!中卒で社長!?オートバイのレーサーだった!!?
とにかく波乱万丈なおもしろい経歴をもっていますので、まだ伊藤智也さんを知らない方は必見です!
現在も現役で活躍を続ける伊藤智也さんについて、詳しく調べてみました。
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伊藤智也の心に残るエピソード
はじめに、伊藤智也さんのことを知って心に残ったエピソードを紹介させていただきます。
2004年アテネパラリンピックでの出来事です。
初めて臨んだトラックでの1500mレースで転倒し骨折してしまった伊藤智也さん。
そのとき1人の黒人選手を巻き添えにしてしまいました。
過去のパラリンピックで優勝経験もある選手で、伊藤智也さんは申し訳なくて、ほふく前進で謝りに向かったそうです。
すると、その黒人選手は伊藤智也さんにこう言いました。
「ミスター・イトー、これがレースだよ。もし君があのコーナーを回っていたら、たぶん誰も追い付けなかっただろう。ナイス・チャレンジだった」と言うのです。“あなたは僕を許すのか?”と思いました。彼は「君たちとパラリンピックのスタートラインに立てたのが僕の誇りなのだ。世界一の男を決めるレースなのだよ」と言う。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
そして、伊藤智也さんはその言葉に感銘を受け、パラリンピックの本当の意味を知ったのです。
そのとき初めて「ああ、速いだけでパラリンピックのスタートラインに立ってはいけないんだ。人格もあり、優しさもあり、人を包み込むような暖かみのある人だけがスタートラインに立てるんだ」と教えられたのです。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
その選手とは、4年後の北京パラリンピックで再会する約束をしたのですが、残念ながら、この2年後に亡くなってしまいました。
伊藤智也さんは、このときの『人間とはこうあるべきだ』と教えてくれたことを形にすることが自分の責任だと感じ、数々の困難を乗り越え、世界で一番の車椅子陸上選手になったのです。
黒人選手の言葉に、私も感動してしまいました。彼自身もたくさんの困難を乗り越え、努力を重ねてきたのに、メダルを逃しても相手を尊重する言葉をかけられるなんて、簡単にできることではありません。そしてその言葉をしっかりと受け止める伊藤智也さんも、とっても素敵な方だということが伝わってくるエピソードです。
それでは、続いて伊藤智也さんのプロフィールと経歴を紹介させていただきます!
伊藤智也のプロフィール
【公式記録】
— 日本パラリンピック委員会 (@paralympic_jpc) August 29, 2021
#陸上 男子 400m(車いすT53) 予選2組
6位 🇯🇵日本 伊藤智也 57.16 #tokyo2020 pic.twitter.com/0UK4OIUH0V
- 名前:伊藤智也(いとう ともや)
- 生年月日:1963年8月16日
- 年齢:59歳(2022年現在)
- 出身:三重県鈴鹿市
- 種目:車椅子陸上
- 座右の銘:「勝って慢らず 負けて僻まず」
三重県鈴鹿市に生まれた伊藤智也さんは、水泳と野球が得意なスポーツ少年だったそうです。
将来は絶対にプロ野球の選手になると思っていました。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
小学生の頃は、リトルリーグにスカウトされるほどだったとか。
中学1年生のときも野球部に入りレギュラーで活躍していましたが、2年生になるとオイルショックで両親が営んでいた家業が傾いてしまいます。
そのため、出稼ぎで父親が運送業を始め、その手伝いをするようになると野球からは離れていきました。
中学を卒業すると大手企業に就職。
工場対抗の野球大会やマラソン大会、駅伝大会などに参加され、大活躍していたそうです。
それと同時に2年間GPバイクレースで全日本選手権を転戦していた経歴もありました!
GPバイクレースは、このようなオートバイのレースです。
若かった当時俺の趣味は、GPバイクレースだった。
— マダオ (@kei_tun) June 27, 2019
まだノービスだった若きころの後輩。
でも本当はヤマハTZにまたがる彼より、ケビン・シュワンツの大ファンだった俺は、彼とチームのくれるパドックパスが目当てだったかもw
シュワンツとレイニーのバトルはGP史上に残る名勝負だったなぁ。 pic.twitter.com/K1q1uuQKyS
三重県鈴鹿市は、鈴鹿サーキットがあるのもきっかけだったのかもしれませんね。
また、17歳のときプログラミングに関心を持ち、独学で習得。
そして、19歳のときに人材派遣会社を起業され、代表取締役を務められていました。
伊藤智也選手が19歳のときは1982年。当時まだ人材派遣会社は珍しかったそうですよ。
それにしても既に経歴がおもしろいです!
1人で始めた会社は、右肩上がりの成長で3年ほどで社員は200人に!
スポーツとは無縁で仕事一筋の生活を送っていた伊藤智也選手ですが、ある日突然、身体が動かなくなりました。
1998年、伊藤智也選手が34歳のときに多発性硬化症と診断されたのです。
当時の状況や、車椅子陸上を始めたきっかけなども続けて紹介させていただきます!
伊藤智也と多発性硬化症
伊藤智也選手が多発性硬化症と診断されたのは、34歳の夏。
社長として忙しい日々を送っていたある日、それは突然訪れました。
最初の違和感は、タクシーで打ち合わせに向かい、車から降りようとしたときに転んでしまったことでした。
その時は「あれ?どこかにつまづいたかな?」と思ったそうです。
すぐに立ち上がり、待ち合わせの喫茶店へ向かいました。
そして無事打ち合わせを終え、帰ろうと思い立ち上がろうとすると、身体が動かなくなっていたのです。
喫茶店に入り打ち合わせを終え、帰ろうと思ったら身体が動かない。すぐ救急車を呼んで病院に行きました。そうしたら、いきなり検査入院です。結果を告げられました。多発性硬化症という病気だと。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
急に身体が動かないって恐怖ですよね。もしかしたら小さな症状が出ていたのかもしれませんが、仕事が忙しくて気づかなかったのかもしれませんね…。
そして入院してから1週間で両目が失明。
両手足も動かず、喉にも障害が出て話せなくなりました。
当時は、「耳だけが聞こえていて植物人間状態だった」とお話されています。
医師からは、『合併症をおこせば余命3年』だと告げられたそうです。
入院期間は、約2年続きました。
入院して半年で会社を退職し、株も全部譲渡して全てを失った伊藤智也さん。
もう、どうでもいいや、という心境ですよ。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
自身で立ち上げた会社に全身全霊をかけて取り組んでいた伊藤智也選手にとって、この状況は世界の終わりのような、絶望的な時間だったでしょう。
ですが、半年を過ぎると奇跡がおきたのです。
右目が見えるようになり、少しずつ話せるようにもなりました。
そして手も動くようになったのです。
医師からも『奇跡だ!』と大変驚かれたそうですよ。
残った障害は、左目の失明とみぞおち下からの下半身不随。
そのため、車椅子を買うことになるのですが、それがきっかけで車椅子陸上の道へと進みます。
多発性硬化症は、ウートフ徴候で体温を上げると症状が悪化したり元に戻ったりするのが特徴です。
そのため、激しいスポーツは厳禁といわれる病気。
それでも車椅子陸上のアスリートになる決断をされたのは、どうしてだったのでしょうか?
伊藤智也と車椅子陸上
多発性硬化症により、34歳で下半身不随となった伊藤智也さん。
入院から1年後、自力では歩けないので、車椅子を買うことになります。
たまたま一緒に入院していた人の息子さんが福祉機器関係の仕事をされていて、「息子の会社で買ってあげて」とお願いされました。
さっそく息子さんがカタログを持ってやってくると、その中で一番「かっこいい」と思った車椅子を注文したのです。
それは、レース用の車椅椅子でした。
しながわecoフェス☆
— にん@虚主ケンタ(ウロスケンタ) (@nin_noji) May 22, 2016
レース用車椅子はサイズの問題で押すだけ… pic.twitter.com/AiUy7wbhip
確かにかっこいいですけど…(笑)
実物を見たらかなり大きくて「これじゃあコンビニで買い物もできないな」。そこで初めて気がついたのです。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
採寸に訪れたメーカーの方が持ってきた車椅子を見て、「さすがに…」と思った伊藤智也さん。
でも自分のミスで申し訳ないので、レース用の車椅子と普通の車椅子、両方買うことにしました。
注文から半年後、病室の飾りと化していたレース用車椅子でしたが、採寸に来ていたメーカーの方から、車いすマラソンの大会に誘われ、せっかくだからと参加を決めます。
ですが、結果は惨敗。
みんなは1時間ほどでゴールする距離を、伊藤智也さんは2時間45分かかり、ビリでした。
気持ちの上では自分は障がい者になっていなかった。途中で筋肉痛に見舞われましたが、リタイヤするのが嫌で走り切った。するとトップの人よりも声援が多かったのです。「がんばれ、最後まで走り切れ」と言われ余計に惨めになりました。
【引用】https://www.ssf.or.jp/files/story_36.pdf
この経験で闘争心に火がついた伊藤智也さんは、主治医の反対を押し切り猛練習を重ねました。
毎日2時間の筋トレと、60kmの走り込みを続けたそうです。
それから3年後、37歳になるころから大会で上位に入るようになります。
この頃、障害者のプロアスリート育成のため、『NPO法人ゴールドアスリーツ』を設立。
スポンサーを集めたり、障害者アスリートをプロ選手にしようと奮闘しました。
自身が障害者アスリートになったことで、「自分がなにかやらなくては!」と思ったそうです。多発性硬化症になっても、責任感と行動力は変わらなかったんですね♪
ですが、世界で戦えても勝てる選手が現れず、残念ながらプロ選手は生まれませんでした。
なので、伊藤智也さんが自らスポンサーを集め、プロの車椅子アスリートとしてデビューしたのです。
2003年に行われた世界選手権では、3つの金メダルを獲得されました。
そして迎えた初のパラリンピック。
2004年にアテネパラリンピックに、マラソン・1500m・5000mの3種目に出場されました。
これまでマラソンの大会にしか出場したことがなかった伊藤智也さんは、このとき初めてトラックを走ることになったのです。
国際パラリンピック委員会から長距離ランナーは3種目出場して下さいといわれたそうです。国内でも一度も走ったことがないのに挑戦するって凄いですよね!
ですが、初めてのパラリンピックに力が入ってしまい、練習中に腱板が切れて激痛に襲われてしまったのです。
3分くらいならなんとかなると言われ、痛み止めを打って出場した1500mで逃げ切り作戦を決行したのですが、スピードを出しすぎて転倒。
肩の骨など、2ヵ所を骨折してしまいました。
それでも5000mとマラソンにも出場し、4位の成績を残しています。
伊藤智也さんがアテネパラリンピックから帰国した直後、さらなる試練が待っていました。
19歳で立ち上げ多発性硬化症により譲渡した会社の社長が亡くなり、会社が倒産したのです。
数億円の借金の保証人になっていたため、債権者の対応に追われた伊藤智也さんは、この騒ぎでパラリンピックでの負傷の手当が十分に行えず、元の身体に戻らなくなってしまいました。
そのため、マラソンは辞めてトラックアスリートに転身。
トレーニングを変えて望んだ結果がこちらです。
- 2006年 世界選手権 3種目銅メダル
- 2006年 ジャパンパラリンピック 2種目金メダル(800mは日本記録樹立)
- 2008年 九州チャレンジカップ 2種目金メダル(どちらも世界記録樹立)
- 2008年 北京パラリンピック 2種目金メダル(どちらも世界新記録)
- 2011年 世界選手権 200mで銀メダル、400mと800mで金メダル
- 2012年 ロンドンパラリンピック 3種目銀メダル
💐 ✨ 本日はゴールデン曜日
— パラサポ|楽しいパラスポーツ情報を発信中📡 (@parasapo) October 23, 2020
\☺/ パラリンピックの
🥇 #金メダリストを紹介します
▕▔▔▔▏
34歳で多発性硬化症を発症した #伊藤智也 選手は、北京パラで400m/800m 2つ🥇を獲得しました✨
一度引退するも2017年に復活し #東京パラ 内定を獲得🔥”車いすの鉄人”に注目です🙌 pic.twitter.com/iqycuX51VR
まさに『車いすの鉄人』!!元々は社長だった方が、アスリートとして世界一になってしまうなんて、まるでマンガの世界です…(圧巻)
北京オリンピック後に出版された著書『絆〜命を輝かせるために』には、これまでのエピソードが書かれています。
多くの出会い『絆』が、伊藤智也さんを強くさせました。
だからこそ、伊藤智也さんの言葉には魂が込められ、私たちの明日を照らしてくれるのです。
そして、ロンドンパラリンピックを終えると引退を表明した伊藤智也さんでしたが、2017年にまさかの現役復帰宣言!
58歳で迎える2020年東京パラリンピックに向けて、新たな挑戦の始まりでした。
復帰してから出場した、2019年のドバイ世界パラ陸上では、100mと1500mで銅メダル、400mで銀メダルを獲得されました。
#パラ陸上 の世界選手権最終日は15日にドバイで行われ、男子1500メートル(車いすT52)で #佐藤友祈 選手(中央)が優勝、 #上与那原寛和 選手(左)が2位、 #伊藤智也 選手は3位に入り、日本勢が表彰台を独占しました(撮影・仙石高記) #WPA
— 共同通信写真部 (@kyodo_photo) November 16, 2019
→https://t.co/nAILuFT7ww pic.twitter.com/yrgFZDPwvj
そして、迎えた東京パラリンピックでは、障害のクラス分けで思わぬ結果を言い渡されます。
もともと活躍されていたクラス『T52』ではなく、障害の軽いクラス『T53』での出場になってしまったのです。
結果は予選敗退(最下位)となってしまいましたが、T52では銅メダル選手の記録を上回るほどのタイムでした。
還暦を目前に現役復帰を決めたときの心境を、このようにお話されていました。
復帰を決めたのを機に、白髪を染めるのも止めました。「ジジィは、ジジィでいいや!」という覚悟ができたこともありますが、ありのままの姿で走ることで、若者だけでなく、僕と同世代の方たちにも、何らかの刺激を発信できたら、すごく楽しいなと思ったんです。
【引用】http://hero-x.jp/article/994/
とにかく楽しいことに全力で取り組み、先頭に立って突き進む姿に年齢は関係ないですね!
もぐぷくまとめ
以上、車椅子陸上のアスリート伊藤智也選手について紹介させていただきました。
中学生のころから数々の困難を乗り越えるだけでなく、前向きに新しいことにチャレンジしていく姿に、とても感銘を受けました。
常に人々を引っ張っていく存在で、それはきっと伊藤智也さんの使命みたいなものなのかもしれませんね。
座右の銘『勝って慢らず 負けて僻まず』(慢ずる:おごり高ぶる、うぬぼれる)(僻む:嫉妬する、ねたむ)を有言実行しているからこそ、人が集まり、次なる挑戦に進めているのが分かりました。
生涯現役!伊藤智也さんのこれからの挑戦を心から応援しています!!
◎伊藤智也さんと同じ多発性硬化症と共に生きるピアニスト、アリス・紗良・オットさんは、一度は動かなくなった手で、世界中の人々を魅了しています。
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