【多発性硬化症の有名人】林家こん平

【多発性硬化症の有名人】林家こん平 難病の有名人

「笑点」(日本テレビ)に第1回から出演されてきた、落語家の林家こん平さん

2004年に笑点を休演し、2005年に多発性硬化症と診断されたことを公表されました。

2020年に亡くなるまで、数々の病と闘い生きた林家こん平さん。

その諦めない人生について、調べてみました。

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林家こん平のプロフィール

  • 名前:林家こん平
  • 職業:落語家
  • 本名:笠井光男(かさいみつお)
  • 生年月日:1943年3月12日
  • 没年月日:2020年12月17日(77歳没)
  • 出身地:新潟県
  • 血液型:A型

1958年、中学卒業後、落語家になるため初代林家三平さんに弟子入り。

1966年、「笑点」(日本テレビ)に第1回から出演されました。

1969年に笑点初代司会者である、7代目立川談志さんとの対立でメンバー全員が降板します。

それから、1972年に笑点に復帰し、2004年に休演するまで、出演し続けました。

初代林家三平さんが54歳で亡くなった後は、一門を統率し、林家三平さんの弟子だった落語家たちを林家こん平さんの弟子にむかえ、林家一派としてまとめ上げたそうです。

他にも、落語協会の理事をされるなど、落語家や芸人たちのために尽力されてきました。

弟子の林家たい平さんは、林家こん平さんから教えられたことについて、こう話しています。

こん平さんからは「焦るな、人と比べるな」と教えられた。

https://hochi.news/articles/20201221-OHT1T50259.html?page=1

「焦るな」「人と比べるな」以外に、落語のことは一切言わず、自由にのびのびと育ててくれたといいます。

笑点を休演されてからも、テレビなどで「林家こん平」の名前を叫び続けた弟子たち。

それは、師匠への恩と人柄があったからこそだったんだと思います。

笑点での自己紹介のときに「1・2・3、チャラーン!こん平でーす!」といって、最後に両手を上げてる姿が印象に残っている方も多いのではないでしょうか?

もぐぷく
もぐぷく

観客として訪れた人たちも一緒にやって、林家こん平さんがいつもニコニコ嬉しそうに笑ってましたよね。

そんな、誰からも愛されるキャラクターだった林家こん平さん。

2004年に笑点を休演され、2005年に多発性硬化症と診断されてからは、どのような人生を送られたのでしょうか?

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林家こん平と多発性硬化症

林家こん平さんは、2005年3月に多発性硬化症と診断されていたことを公表されています。

最初の異変は、2004年春ごろに感じた、目のかすみでした。

それから、落語家として致命的といえる声が出にくくなり耳鼻咽喉科を受診しますが、原因は分からず。

そして、8月の収録日に、意識が薄れ、ろれつが回らなくなりながらも、本番を乗り切り、そのまま病院に運ばれました。

当時のニュース記事には、このように書かれています。

こん平さんは今年5月ごろから声が出にくくなり、薬を飲みながら仕事を続けていたが、検査のため8月下旬に入院。のどの使い過ぎが原因で声帯に小さな固い突起物ができる「声帯結節」と診断された。

http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20040901000175

当初、この「声帯結節」の治療と安静のために、1ヶ月ほど入院すると報道されていましたが、実際に退院したのは2005年5月、約9ヶ月入院していました。

その間に、東京女子医大病院に転院し、多発性硬化症であると診断されました。

60代男性の発症は珍しく、診断が遅れたそうです。

当時のことは、このように書かれています。

多発性硬化症は記憶が途切れることがあり、入院中の出来事について本人は「全然覚えていない」。しかし家族と弟子らは、交代で見張りについた。点滴を抜き、ベッド横の柵を乗り越えて、“脱走”をたびたび図ろうとしたからだ。

https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20101104-OYTEW53208/

記憶が途切れ、「仕事に行かなくちゃ」という想いで脱走を図ったという林家こん平さん。

もぐぷく
もぐぷく

緊迫したご家族の気持ちが伝わってきますね。

笑点は、12月から弟子の林家たい平さんが代役として出演。

林家こん平さんの席を守り続けましたが、復帰は難しく2006年5月に林家たい平さんが正式メンバーとして昇格されました。

それから、趣味の卓球やリハビリを行い、テレビなどで徐々に回復されている姿を見せていました

ですが、2013年に元々患っていた糖尿病が悪化し、左足が壊死

壊死した左足指3本を切断し、一時は心肺停止に陥りました。

退院後は、自宅で家族による介護を受けながら、テレビに出演したり、同じ病気で苦しむ人達のために講演会に出演したり、闘病記を執筆されたりと、全てをさらけ出し、病と闘う姿を見せてくれました。

2010年に発売された、林家こん平さんの著書『チャランポラン闘病記』は、多発性硬化症のことだけでなく、落語家としての半生も書かれています。

林家こん平さんのユーモアに溢れた文章で、おもしろおかしく読み進められます。

気になる方は、ぜひチェックしてみて下さい♪

チャランポラン闘病記をチェックしてみよう♪

落語家として復帰を目指していた林家こん平さんですが、2019年に小脳梗塞により緊急入院

2020年には、体調を崩して入院し、「あと数ヶ月」という余命宣告を受け、最期は自宅で迎えるため退院されました。

そして、2020年12月17日、誤嚥性肺炎のため、77歳で亡くなられました。

自宅で最期を迎えたいと終末医療を選択。体は徐々に弱っていったが、見舞いには「うん、うん」と言葉を返すなど、意識は亡くなる2日前まであったという。

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202012210000889.html

誰からも愛された林家こん平さんですから、きっと多くの弟子や落語家仲間たちが、お見舞いに訪れたことでしょう。

亡くなる2日前まで意識があり、息を引き取られたときは、子供や親族たちに見守られ、苦しむこともなかったそうです。

弟子の林家たい平さんは、師匠である林家こん平さんをこのように話されています。

「笑点の初めから第一線で活躍された。若くして師匠(初代林家三平)を亡くされて、林家をまとめてこられて大変な功績を残されたと思います」

https://www.sanspo.com/article/20201222-67U2TET2NFJDNEZ72OLXN2IFDU/

落語家としての才能もあり、人を引き寄せる才能もあった林家こん平さん。

もぐぷく
もぐぷく

それは、弟子だけでなく、テレビの前で笑点を見ていた私たちにとってもそうでしたね。

林家こん平さんが亡くなったときには、SNSでも多くの悲しみの声が溢れました。

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もぐぷくまとめ

以上、多発性硬化症の有名人、林家こん平さんについて、お話させて頂きました。

私にとって林家こん平さんは、笑点のイメージしかなく、目に浮かぶのはオレンジ色の着物を着て、大きな声でいつもニコニコしている姿でした。

ですが、経歴を見てみると、亡き師匠の弟子たちをまとめあげたり、落語協会の理事をされたりと、落語家たちのために、奮闘されてきた人でした。

落語を極めるだけでも大変な仕事ですから、この功績は誰でも出来るものではありませんよね。

そんな素晴らしい人が、どうして多発性硬化症になってしまったのか。

考えれば考えるほど、理不尽な現実に怒りさえ覚えます。

ですが、林家こん平さんのお陰で多発性硬化症や難病と言う、どうにもできない病があることを知った人も多く、その闘病姿を見せてくれたからこそ、理解してくれた人も多くいたと思います。

それもまた、林家こん平さんの功績でした。

天国の林家こん平さんのためにも、多発性硬化症が治る病気になる日がくることを信じて、諦めず生きていきたいですね。

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